九州の中部地域、大分・熊本などには、江戸期から明治にかけて建造された石橋が数多く残されています。これらの橋は人や車が通る橋の他に、灌漑用水や生活世水を通す水道橋があります。なかでも熊本市の中心部から、阿蘇外輪山の南部を通り高千穂峡を経て宮崎県延岡市へ至る道中にある矢部町は、その規模に加え橋の中央部からの放水で知られる「通潤橋」のある町として、多くの観光客が訪れます。
通潤橋は水路橋としては日本一の規模を誇り、架けられたのは幕末の嘉永7年の事
(1854)です。古くから水源に乏しく畑作中心であった白糸台地へ水を送るため
に、矢部の総庄屋であった布田保之助が計画し、熊本八代の種山石工技術者集団の頭領である丈八によって建設が行われました。
橋の上に石造パイプを3列並べた通水管を通し、水の吹上口が取入口より約6m低い事から、逆サイホンとも呼ばれる連通管によって水を送る特異な構造になっており、当時の石膏技術の高さが証明されています。放水風景で知られる放水口の本来の役目は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものですが、現在は農閑期に限り観光放水を行っています。
さて、町の歴史に戻ると、現在も国道218号線・国道445号線の分岐点である事で分かるように古くから、熊本と宮崎を結ぶ交通の要衝で、中世より社家である阿蘇氏大宮家がこの地に進駐して居館を設け「浜御所」「浜の舘」と称した時期から政治経済の中心として発展しました。矢部町の中心市街である浜町。山中にあって「浜」とはこの地域の言葉で広々とした水田や山間部にある平坦な盆地を意味するとか。
関ヶ原の戦い後、矢部市街南部の愛藤寺城(白藤地区)が破却されると、城下町の商人が浜町に移転し、肥後・日向国境の宿場町「馬見原」(蘇陽町)と熊本城下との丁度中間に位置する宿場町・在郷町として発展しました。
ちなみに、矢部町を通る日向往還は、矢部から清和までの区間を特に矢部街道と呼ばれていました。
浜町は仲町通、横町通、新町通も3筋からなり、今は閑散としていますが、おそらく昭和中期まではこの地域の中心地として賑わったであろう、古い町並みはほとんど残されてはいませんでした。かろうじて残る白壁商家建築が2軒。その一つが矢部を代表する銘酒「通潤」を醸す通潤酒造です。
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