中央自動車道の松山ICと飯田ICの中間に高森町という人口13,000人ほどの町があります。
地名の由来にもなった標高1,889mの本高森山を頂点に、天竜川にかけて緩やかな山麓扇状地と河岸段丘からなる町で、伊那街道(三州街道)の市田宿(原町宿)が上市田に置かれていました。
上市田は扇状地中腹、中央自動道に隣接した地区で、旧三州街道である主要地方道飯島飯田線が通り、その道沿いに宿場町時代を偲ばせる家並みが残されていました。
市田宿は、戦国期に武田信玄によって伊那街道が中山道の脇往還として整備され、市田村には伝馬屋敷が造られて市田宿が生まれました。天竜川に近い下市田から上段の上市田に町場が移された事から「原町宿」とも呼ばれていました。「原っぱへの移転」から生まれた俗称とも言われ地元ではこちらの名称が一般的なようで「市田原町」の名も現れます。
現在でも原町の名は一般に使われ、バス停などにも見ることができます。
江戸時代には三州街道・伊那16宿のうち、大島宿・片桐宿・飯島宿と並んで、唯一「宿」として認められた4宿の一つで、飯田藩より五街道さながらの保護をうけ発展します。弘化3年(1846)には陸奥白河藩領となり、市田宿の北東に市田陣屋が設けられていました。
現在の飯田以北の三州街道沿いに残る家並みには、切妻妻入の本務造りの民家が多く見られるのが特徴ですが、この市田宿では切妻平入りで中二階の典型的な商家建築の比率が多い事が分かります。さらに一部商家には美濃地方に多く見られる本卯建を見ることができます。
三州街道では、根羽宿や平谷宿、駒場宿などで美濃方面とつながる横の街道が合流していた事から、彼の地の建築様式が伝わったのでしょうか。
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