阿智村は飯田市の西に位置し岐阜県中津川市や恵那山と接する人口約7,000人の村。その中心市街が、近世に信濃と三河・東海道を結ぶ三州街道の宿場町として栄えた駒場地区です。現在は隣接する旧・浪合村と旧・清内路村を合併して村域が広くなり、かつ飯田市生活圏に立地している為に人口もこの南端地域の町村の中ではズバ抜けて多いのですが、居住者の多くが飯田市近郊に寄っているためか、村の中心である駒場地区はひっそりとしています。その場所は中央自動車道の網掛トンネルと阿智SAの中間付近にあり、昼神温泉郷などでも知られている地域です。
駒場は長く「こまんば」と呼ばれていました。村の中心に平坦部があって、ここを関田といい、宿場町を関の駒場と呼んでいました。飯田城下への西の玄関口の宿場町として多少受容しされていたようです。江戸中期以降は中馬による物資輸送が頻繁になり「入り荷千駄・出荷千駄」と言われるほどに繁栄したといいます。
古くは東山道の信濃坂(神坂峠越え)の麓に位置し、三河道が合流する阿智駅がその起源だったと言われています。近世以降は中山道・木曽路への清内路道と三州街道(伊那街道)が合流し、現在の国道256号線と国道153号線がそれらを踏襲し、さらにその頭上を中央自動車道が通過しています。
旧道は現在の国道よりも一段下がった阿知川沿いを通ります。緩やかにカーブした坂を下ると平坦地に街村が伸びています。昭和初期の面影を残す商店街を通り過ぎると、切妻平入りの古民家が軒を連ねる住居地区になります。建物はそれほど古くはありませんが、千本格子や犬夜来などが整えられ、往時を偲ばせます。家々の裏手には田畑や土蔵がありました。やがて洋風の旧阿智郵便局が現れます。「ぼくらの郵便電話資料館」として保存されていました。しかし、三州街道も飯田を境に北と南でまったく家並みが異なることに驚かされます。
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