松本城下を出た北国西街道(善光寺街道)は近郊の宿場町・岡田宿を経て「あだ坂」とも呼ばれる刈谷原峠を越えて刈谷原宿に至ります。町並みは峠の坂に連なる山間の宿場町で、北国西街道と上田方面へ通じる保福寺街道の分岐点でもあります。次の宿場町は会田宿です。
現在国道143号線は刈谷原トンネルで通過してしまうため、この集落を見つけるのに苦労しました。まず集落へ至る道が細く案内標識もありません。ようやく宿場地区に出ると道は広くなりますが、再び狭く、集落を縫うように走り、旧道はやがて舗装が無くなり草道となって山の中へと分け入って行きます。この先旧道は東海北陸自然歩道として徒歩で抜ける事は可能ですが、車での通行は不可能です。
このあたりには、古くは古代官道「東山道」の「錦織駅」(にしごり)が置かれていたと言われ、古代から交通の要衝であったことが分かります。もっとも駅が置かれた場所は、もう少し麓の七嵐・赤怒田地区あたりとされています。戦国期には苅屋原と書かれ、江戸期に刈谷原町村となり、北国西街道が村内を通ったことから正式に宿場が置かれました。幕末ごろの家数は70戸、宿の中央付近に上問屋・下問屋の中沢家があり、それぞれ本陣・脇本陣を兼ねていました。旅籠屋も数軒あり、そのほかに茶屋も4〜5軒ありました。
しかし現在の刈谷原に昔の宿場町の面影を残すものは殆どありませんが、道に平側を向けた家々が並び街道の風情は残る静かな集落です。さらに各家々の玄関には往時の屋号が掲げられていました。
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