旧四賀村の中心市街が北国西街道の宿場町である会田宿です。四賀村の村名は昭和30年の
" 4か村の合併を賀する"から名付けられました。現在は松本市と合併した為、この地名はありません。
周囲を山々に囲まれた地でしたが、鎌倉期には伊勢神宮領として会田御厨が置かれていました。戦国期には会田海野氏の城下町として、この地方における政治経済の中心地として発展します。村内を北国西街道(善光寺街道)が通ることから、松本と善光寺平(長野)さらに上田を結ぶ交通の要衝でもあり、会田氏の城下町にも早くから宿場が形成されていました。
江戸時代に入り、慶長19年に松本藩の正式な宿場町となります。町の中央が中町通り、西端から北に本町通りが伸び、ここから難所である立峠を越えて、山の反対側の峠茶屋集落である乱橋を経て青柳宿へと至ります。東端からは南に立町が延び、刈谷原宿を経て松本城下へ至ります。また東には上田城下へ至る小県道(松本街道)が分岐していました。
北へ延びる本町通りは、中信の宿場町に多く見られる急峻な坂の通りです。
文久3年の記録で家数117戸、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒、木賃宿4軒、茶屋3軒、馬牛宿3軒とあり、白壁の土蔵や塗籠造りの商家建築、本陣の門構えなど宿場町時代の様相を色濃く残しています。幕末の天保年間から安政年間の間に7回もの大火に見舞われており、海鼠壁の塗籠造り造りの建物が多いのはその為でしょうか。
明治23年に現在の国道143号線が整備され、車馬の交通量が飛躍的に増加して会田宿は栄えましたが、長くは続かず、明治35年に篠ノ井線の開通とともにその役割を終えました。
※(木賃宿(きちんやど)とは今で言うなら素泊まりの宿。薪代である「木賃」を払って自炊を基本とする。もちろん別料金で食事のサービスも受けられる。
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