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渋温泉の目の前を流れる横湯川を挟んだ段丘上に沓野地区があります。沓野は草津街道の宿場町として古くからその名が見られる集落で、志賀高原へと向かう斜面に沿って温泉宿や酒蔵が並ぶ姿は往時を偲ばせます。
沓野の名は湯田中地域の枝村でしたが、延宝年間ごろに独立した名主が置かれ、幕末の安政2年ごろに湯田中村から正式に分村しました。
上州草津へと通じる往来沿いにあった事から、草津との物資交流が農家の駄賃稼ぎとして早くから行われており、積雪期を除いて、「牛士」とよばれる運送者が一泊二日で草津と往復していたと言います。
ところで、この草津街道は”抜け道”であり、この沓野も正式な宿場町ではありませんでしたが、越後方面・北信地域から上州・江戸への最短ルートでもあって湯治客だけでは無く商人や物資の往来も増えていきました。これにより競合する大笹道との係争も激化するのですが(大笹道自身も北国街道と係争を起こしています)、この裁きにより契機に草津との地元物産品の交易に限定する条件付きで和解が成立し街道は公認されます。
しかし物流からは撤退しましたが、草津温泉ー湯田中・渋温泉ー長野善光寺という広域観光ルートを提唱、今でいうツアーを企画し湯治客の大量誘致へと乗りだします。
沓野は役人の往来や伝馬制が無い、自然発生的な宿場でしたが、湯治客の増加によって飯盛女(遊女)もかかえた湯宿へと発展しました。その為問屋や本陣、高札場などは無く、あくまで街道沿いの街村にすぎませんが、大型の旅籠や旧家などが当時の姿で残されています。その中心は造り酒屋を営む「玉村本店」です。
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手の込んだせがい造りの旅籠建築 |
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旅籠の裏にある母屋? |
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