長野の善光寺は古くから人々の信仰を集め、多くの参詣客が足を運びました。各地から善光寺に通じる街道は、それぞれの正式名称がありましたが、庶民の間ではもっぱら「善光寺街道」と呼ばれていました。
中山道洗馬宿の追分けから北上し、城下町松本を通って険しい山間を抜け、長野に至る善光寺街道は正式には北国西街道(往還)といいます。
城下町松本の北の玄関口である岡田宿を出ると、善光寺平の玄関口である桑原宿の間だに横たわる険しい山間の難所には4つの宿場町が設けられていました。刈谷原宿、会田宿、青柳宿、麻績宿がそれで、青柳宿の南側にも町場が形成されていました。
この西条は戦国時代この地域を支配した青柳氏の支城である西条城が置かれていたことに始まります。この西城の町は青柳宿との合宿や間宿でもありませんでしたが「ほんじ」(おそらく本陣)と呼ばれる家や旅籠屋が軒を連ねました。
町場は江戸時代に入って街道が本格的に整備された時期に、自然発生的に生まれたもので、街道沿いに周辺地域からの移住によって街村が形成されていきました。
立地にも恵まれ、安曇野地方と上田地方をむすぶ池田道が本街道と交差する要衝でもあり町は繁栄したのです。
西条村は明治8年に東条村・乱橋村・大沢新田村と合併し「本条村」となりますが、7年後に分村。明治22年に再度合併して、旧青柳氏の三支城にちなんで「本城村」と名づけられました。
西条の発展は幕末から明治にかけ、石炭が採掘された時期に最盛期を向かえます。石炭や労働人員の輸送の為に開通した国鉄篠ノ井線により中南信と長野をむすぶ交通の要衝として大いに賑わったのははるか昔のこと。今は宿場町時代を偲ばせる風景が残る小さく静かな村の中心市街となっています。
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