信州新町は長野市の南西端に接する、人口役5,000人ほどの小さな町で、長野市街から明科を経て塩尻で中山道へ合流し、名古屋へ至る国道19号線沿いに町が開けています。
信州新町はその名から、歴史の古いものでは無く、昭和の大合併で大揉めに揉めた末に行き着いた妥協案の名を推察しましたが、実は戦国期に始まる歴史の古い地名だったのです。
戦国期頃から西山地方の商品取引の中心として穂刈新町の名が見え、江戸時代に入り、松代町、善光寺町の十二斎市の開設に続いて九斎市が認可され、本格的な市場町として発展します。市の繁栄に会わせ、江戸中期ごろからは松本〜新町間の犀川通船が出願されますが、善光寺街道(北国西往還)の宿場町との係争の為に実現までは長い年月を要しました。和解条件は宿方と競合する荷物、武家方荷物、旅人の乗船は行わず、地元経済圏の生活資材や食料品、物産の輸送に限定するというものでした。
新町の通船は15隻で運行、新町村の大内家と白坂村の折井家が問屋を勤めました。新町の商人はは近郷の特産の麻や楮(こうぞ)の製品を集荷し、長野や松本にとどまらず、はるか江戸や京都、大坂にまで商圏を拡大していきます。
明治35年の篠ノ井線の開通で犀川通運は不振になりますが、それでも大正期から昭和の戦前まで続いたといいます。
現在国道19号線の拡幅の為、新町の中心市街はその姿を大きく変えつつあります。しかしその裏手の旧道沿い並ぶ商店街には、いくつかの伝統的な商家や旅籠がひっそりとチルドされていました。しかしその多くは老朽化が激しく、取り壊しをただ待っている様子です。
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