一路一会古い町並みと集落・甲信越>長野>遠山郷上町

  遠山郷上町
とうやまごう かみまち
 秋葉街道の宿場町
 長野県飯田市上村字上町 【旧・長野県下伊那郡上村字上町】2005年合併

構成:切妻平入り中二階(古民家・旅籠建築) 駐車場:上町駐車場

 
 

諏訪湖付近から始まる中央構造善の破砕帯を川が浸食して生まれた、総延長1,000kmにも及ぶ日本最長の谷を境に東に赤石山脈、西に伊那山地がそびえ立ち、その渓谷の谷底を貫く近世信仰の道・秋葉街道。上村の中心部はその宿場町であった上町宿に始まります。

現在の国道152号線にあたる秋葉街道について少し触れてみると、海のない信州における生命線であった「塩」に始まります。それらは、日本海からの「北塩」と、太平洋からの「南塩」がありました。南塩ルートでは江戸期前後に発達した中馬街道である三州街道(伊那街道)や遠州街道がありますが、もう一つ、後の秋葉街道となる遠信古道がありました。

この遠信古道が縦貫する遠山郷の遠山川流域は、戦国時代に甲斐の武田信玄が遠江・三河を攻略するための軍用道路として発展させます。
そして、江戸時代に秋葉山信仰の道として秋葉街道が生まれ、多くの参詣客で賑わったのです。

秋葉山信仰の前身は、養老二年(718)に行基が開いたとされる大登山霊雲院と呼ばれた仏教寺院でした。これが戦国時代に戦乱によって荒廃。それを再興したのが、徳川家康の隠密として活躍した茂林光幡でした。光幡は秋葉山再興のために秋葉寺の宗旨を依然神仏神仏混淆の寺として変え、江戸幕府の庇護の元に「火防(ひぶせ)の神」として日本全国で爆発的な信仰を集めるようになったのです。
しかし、時代が明治に変わると、明治政府の神仏分離令の影響で秋葉寺では修験派と寺僧派が対立、これに浜松県が介入して、秋葉寺は取り潰されてしまったのです。

上町宿は伊那山脈の渓谷を南北に貫く秋葉街道と、遠州街道から分かれて小川路峠を越えてきたもうひとつの秋葉街道(現在の国道256号線)の合流点であり、江戸中期から秋葉山参詣者と飯田からの物資輸送の宿場町として栄えました。北には地蔵峠、飯田への小川路峠は秋葉街道の難所と呼ばれ上町宿は峠越えの宿場でもあったのです。

日本最後の秘境とばれるこの地域で、高度成長期の洗礼も受けなかった上村には、宿場町時代の面影がチルドされたようでした。さらに近年、「日本のチロル」と称される下栗集落とともに注目を集め、上町宿の町並みも修復整備が進められています。