中山道追分宿から分岐した北国街道は小諸城下の次に田中宿に入ります。しかし田中宿は、寛保2年(1742)に発生した千曲川大水害で壊滅し、当時はまだ上田城下との間宿であった海野が宿駅の機能を引き継いで本宿へと昇格します。
明治に入り、国道や鉄道の建設が町を大きく迂回したために、海野宿には当事の姿のまま町並みが残され、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
街並みの中央に流れる用水路を「堰」と呼び、道の両側に並ぶ家並みはそれぞれ北屋敷と南屋敷と呼ばれていました。
この一帯の歴史は古く、中世には海野郷と呼ばれ豪族海野氏によって支配されていました。しかし、甲斐の武田信玄が信濃へ侵攻し海野氏は滅亡します。そうした中で海野氏の一族・真田氏は、武田信玄に従い上田に城下町を築きました。この時、海野宿から商人を上田城下に呼び寄せて生まれたのが海野町です。これ以後、城下の海野町と区別するために海野宿は「本海野」の名で呼ばれるようになりました。
時代の流れと共に海野は宿場町から農村集落へと変わり、そして日本有数の養蚕地帯となります。屋根の上に設けられた小屋根は「気抜きの櫓」と呼ばれる養蚕民家の特徴です。
海野宿の街並みは本二階造りや大壁土蔵造り、塗籠造りに卯建を上げた商家や町家などが大半を占めていますが、いずれも江戸時代ではなく明治以降に建てられた建物です。
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