むかしむかし、土佐の山方に永楽又兵衛とういう百姓がいて、妻と別れ、後妻を迎えた。又兵衛には前妻との子、三助がいたが継母はこれを嫌い、佐渡の島へ流してしまいます。
三助は佐渡の松ヶ崎に流れ着きます。
同じ頃、能登から小木に流されてきた、お菊という名の女がいた。このふたりが出会った場所が現在の多田であり、「合うた」がその語源だと言われています。
二人は、それぞれ土佐と能登から「稲」を持ち込み、それで田畑を切り開いていきます。これが佐渡へ稲作が伝わった伝承であり、「土佐三助」「加賀早稲」という2つの佐渡米ブランドの由来となっています。
ゆえに「多田」は「ただ」ではなく「おおだ」と読みます。河内川の河口にある多田港は歴史の古い港町で、中世には佐渡へ配流となった室町時代の猿楽師、世阿弥(ぜあみ)もこの港から上陸しました。
中世からの商港としては、となりの松ヶ崎が古代からの国津であり、北前船の寄港地でもありましたが、船舶の大型化によってその役割は、江戸時代にはこの多田港へ移ります。
その後はさらに小木や赤泊へと移る事になるのですが、北前船の寄港地であった時代が最も繁栄した時代であり、問屋など在郷商人は少なかったものの、船宿の数は多かったと記録されています。現在も海辺の集落と河内川沿いには、元々は旅籠であった建物が今も多く残され往時を偲ばせます。
近年まで多田港は小木〜新潟間を結ぶ佐渡汽船の寄港し、また国仲平野と前浜海岸を結ぶ道と海岸線を走る旧松ヶ崎街道が合流する陸路の要衝でもあるようですが、
商業的発展はなかったようです。
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