2004年9月に常陸太田市に編入合併した旧・里美村は人口約4,000人ほどの茨城県北辺の村で、南北に流れる里川が作り出した谷底平野を、同じく南北に貫く旧棚倉街道(現在の国道349号線)に沿って発展した宿場町・在郷町が現在の各集落の起こりでした。
この里川地域は古くから蝦夷攻略の為に官道が整備され、駅家も置かれていたと言われています。中世から見られる主な集落は小里上、小里中、小里下と呼ばれていましたが、江戸時代ごろから小中、大中、折橋という地名に改称されたといいます。今回紹介するこれら三宿に往時を偲ばせる風景はわずかしか無く、まとめて掲載する便宜上、小里三宿と項の名称を付けました。実際に現地でこのように呼ばれて入るわけではありません。
さて旧里美村内の宿場町は北から、国境(県境)に接し、番所も置かれた徳田宿、小妻宿、小中宿、大中宿、折橋宿、河原野宿がありました。棚倉街道は常陸太田街道のほか、小里通りとも呼ばれ、水戸城下から地域経済の中心地であった太田を経て、陸奥棚倉城下など中通り南部地域を結ぶ幹線道路で、物資の往来が多く、さらに水戸支藩である守山藩もあって両藩家臣の往来、そして60万石に及ぶ年貢米の集積地もあって幕府役人の往来も盛んな街道でした。
中でも小中宿と折橋宿は棚倉街道に東西を結ぶ街道が交差する交通の要衝で、木材や米穀、煙草などの在郷商人が多く、今も旧家が旧道沿いに見られます。昭和の合併で村の中心となった大中宿は、地理的に中心であった事から選ばれたと思われます。江戸期には隣りの折橋宿と共に唯一”市立て”が認められた村でしたが、今その面影はありません。
三宿の中で一番見応えがあるのが、小中宿で酒蔵も営む旧家の井坂家邸と佐藤家邸。重厚な薬医門にナマコ壁の塀・土蔵が迫力で、この棚倉街道の繁盛ぶりを伺わせます。もっとも小中宿は明治の大火で焼失し、これらの家はその後に再建されたものだといいます。
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