京都の丹後と接する若狭再西端の町・高浜は国境の要衝として交通や軍事的にも重要な地であり、戦国期には若狭国守護武田氏の被官逸見氏が高浜城を築いてこの要地を守りました。
慶長5年、若狭一国を与えられた京極高次は家老津川一義を高浜城に入れ、大飯郡を支配させます。京極家は二代忠高の時代に出雲松江へ移封となり、替わって酒井忠勝が11万3000石で若狭小浜へ封じられます。以後高浜は明治まで坂井家小浜藩の支配となりますが、一国一城令により高浜城は廃城になり、かわりに町奉行が置かれ、大飯郡の年貢米が集められる蔵屋敷が建設されました。
近世の高浜は、城下町を中心にした町方と漁港からなる浦方に分けられ、海上交通と丹後街道の宿場町として発展していきます。
かつて高浜城が築かれていた事代(ことしろ)地区の城山公園は風光明媚な入江が魅力で、早朝や夕暮れは極めて美しく穏やかな日本海の景色を望むことができます。
現在の高浜は夏の海水浴場として賑わいます。大正期に町の商工会が中心になって海水浴場を整備したのが始まりで、若宮・鳥居浜・和田には多くの別荘が建ちました。
高浜の古い町並みは主に旧丹後街道に沿う形で広範囲に残されています。町の西口に位置する立石・若宮・三明・事代は本町・中町商店街を構成し、町の中心繁華街となっていますが、伝統的な商家の商店が多く見られます。
旧丹後街道は事代地区本町で直角に南に折れ曲がり、子生川を越えて宮崎地区の赤尾町・横町とここでも数回折れ曲がり東へ進路を取ります。
宮崎地区から薗部にかけての街道沿いには、切妻妻入りの建物が連なり、その多くが旅館や民宿を営んでいまました。古い港町を思わせる細い路地にも、大正から昭和初期の時代を思わせる家並みが残されており、町全体を通して時間の流れが緩やかな感覚を覚えます。
丹後街道をそのまま進むと、町は一旦途切れ、遠くに若狭湾や松林を臨む田園地帯を抜けて和田地区へ通じます。
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