能登半島中央部を南北に両断する邑智地溝帯。そお地溝帯中央を西流する長曽川に沿ってJR七尾線と国道159号線が金沢と七尾沢を結んでおり、このわずかな平野部が能登最大の穀倉地帯であると共に、古くからの大動脈でした。
金沢と能登半島を周回する街道は「能登街道」と総称され、西海岸・日本海沿岸を通る「外浦街道」と東海岸・富山湾側を通る「内浦街道」の2ルートからなります。そのうち邑智地溝帯を縦貫して金沢へ至る区間は「七尾街道」、明治期以降は「中能登街道」とも呼ばれており、藩政期には高畠と二宮の2箇所に宿場町が設けられていました。江戸時代、七尾(所口・府中)から金沢へ本拠地を移した前田家は、元の城下町であった所口(七尾)の発展を維持する為に、内浦街道の交通は全て所口を経由する事が定められていました。とはいうものの、田鶴浜から良川を経由して長曽川右岸を抜ける「西往来」が最短路として当時から認知されていました。
高畠の歴史は古く、宝達山に隠れ住んだ平家の落人が下山して開いた村という言い伝えも残り、鎌倉時代にはすでに宿が置かれていたといいます。もっとも鎌倉期の高畠宿は現在の場所とは少し南西に離れた場所だったようです。
現在も宿場町らしい街村の形態を色濃く残している高畠を中心とした御祖地区。集落の北側を迂回する旧七尾街道のバイパスである国道159号は、近年にさらに北側に建設された鹿島バイパスによって県道七尾鹿島羽咋線に降格しています。この2重のバイパス化によって高畠を初めとする旧街道沿いの家並は保存されることとなったようです。藩政期の七尾街道は「横大道」とも呼ばれ本陣・脇本陣が置かれており、それらを引き継ぐ三宅家・谷内家の邸宅を初めとして今に残る旧高畠宿の町並み規模は大きく、小金森ー曽根ー高畠ー福田ー藤井と連なり、次の小田中へと続いています。
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