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富山県新湊市の礎は、江戸期における加賀藩河北七浦の一つとして北前船が出入りする商港、さらに時代をさかのぼる時代より越中有数の港町として栄えた放生津湊に始まります。放生津の名な今も、奈吾ノ浦に面した町名として残されています。
放生津の名は鎌倉期から見え、奈吾ノ浦の名はそれよりもはるかに古くから呼ばれていました。
庄川の河口東岸に広がる放生津潟。所々に形成された微高地形と海岸線には約5mに達する砂丘があり、そこを伏木から東岩瀬に通じる浜街道が通り、その街道筋に沿って街村の形態をもつ港町が形成されました。
一方、放生津潟に接して広がる低湿地帯は水田に開発され、排水のために縦横に走る水路は「タズル舟」と呼ばれた舟運交通路が発達。それらを後背地にもつ湊である放生津は射水地方における政治経済の中心地として発展します。
現在の放生津小学校は、中世における越中守護所の跡地といわれています。
藩政期には高岡城の建築資材が、能登半島や内陸の五箇山からこの放生津を経由して運ばれました。東西に伸びる浜街道沿いに形成された放生津町の通称名は、東町・中町・奈呉町(西町とも)と称され、さらに東町と中町の間だに間町(あいのまち)が生まれ、間町は後に四十物町(あいものまち)と改称されています。
また四十物町と奈呉町の間だには、山王社にちなんで山王町が、奈呉町には恵比寿町が生まれています。これらの中心である奈呉町・中町・山王町が現在の放生津町であると共に、一部往時の通称名も残されています。
現在の港町付近は始め浜新町と呼ばれ、後に放生津新町の開町によって古新町と改称されます。
港町と放生津町は現在「湊橋」で結ばれていますが、初期には渡し舟が往来し、六渡寺の「大渡し」に対して「小渡し」と呼ばれていました。しかし江戸期に起きた大火によって多くの命が失われた為に、架橋が行われ、長く「お助け橋」と呼ばれていましたが、明治期に湊橋と改称され今に至ります。
江戸期には北前船が数多く出入りする一大商港として賑わった放生津ですが、明治に入って新たに導入が進んだ西洋型汽船は北前船を廃業へと追い込みます。さらに船舶の大型化に呼応して富山県は伏木港の近代化工事を行い、放生津は漁村へと追いやられ表舞台から姿を消しました。
しかし、工場の誘致によって臨海工業地帯化が進むと、今度は伏木港がその限界に直面し、再び放生津潟の近代化計画がスタート。新湊市は再び富山県を代表する海の玄関口へと返り咲きます。
新湊の町並みは内川沿いの風景が知られていますが、残念ながら伝統的な古い家並みは残されていませんでした。かつて長徳寺と呼ばれた在郷町である現在の本町もまた同様で、メインである放生津町から八幡町にかけて旧浜街道沿いに、かろうじて往時を偲ばせる建物が点在して残されていました。 |
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