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古くは日光川左岸に萩の自生地があった。そこから名付けられたと言われる萩原の町は江戸時代に美濃路の宿場町として創設された町でした。
美濃路は幕府管理の道で、東海道と中仙道を結ぶ脇往還。徳川家康が関ヶ原の戦いの帰途に、この道を凱旋したことから御吉例街道とも呼ばれていました。
萩原宿は起宿と清洲宿の間に設けられ、一宮から津島へ至る巡県街道もこの宿場を通り、交通の要衝として栄えたことが伺えます。本陣は森権左衛門家、脇本陣は森半兵衛家、問屋は鵜飼家と木俣家が務めていました。
当初は家数53軒、人口300人ほどの宿場町でしたが、後に家数は236軒に増え、人口も1000人を上回るほどに発展します。旅籠屋のほか、茶屋や商店も建ち並び、幕末には遊女屋7軒、揚屋2軒(遊女を置かず場所のみを提供する店)といいますから、相当な盛況ぶりだったようです。
萩原の町並みは国号155号線・串作交差点から西へ延びる商店街に残り、伝統的な商家や旅籠屋風の建物、大正期から昭和初期ごろを思わせる家並みが続きます。商店街は正端寺の前から北へと向きを変えますが、家並みもそれに沿って続いています。
美濃路は萩原宿で進路を変え、起宿へと至り、木曽川を渡って美濃へと至ったようです。
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美濃路は正端寺の前から向きを変える |
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伝統的な建物は点在しているものの、個々の状態は非常に良い・上町 |
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下町の町並み |
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