「丹後ちりめん」の里としては以前からその名で広く知られている加悦町に繋がる野田川町もまた、江戸期より丹後ちりめんが盛んに織られた地でありますが、対外的なアピールで先行している加悦町にくらべて、町並みがその加悦町と繋がっている事もあり、存在感が今ひとつ薄れて感じられてしまう町です。
「丹後ちりめん」は、延宝9年(1681)宮津藩に入った阿部正邦が農間余業として織物を推奨した事にはじまり、それから半世紀を経た享保6年(1721)に京都西陣で技法を学んだ山本屋佐兵衛らが、丹後のこの地で縮緬織の技法を広め、製品技術の向上とブランド化に成功します。現在の野田川町の中心となる旧・三河内村は当時丹後最大の機台数を誇り、その規模は昭和初期まで続いて栄えていました。
野田川町は宮津街道、峰山街道、丹波街道が交差する交通の要衝で、岩屋村には関所と高札場が設けられ、中心の三河内は峰山街道に沿って街村が発達、町場のような町並みが続きます。今でも街道沿いには織物問屋や商家が連なりひっそりとしていますが、表通りと並行する裏道に一歩足を踏み入れると、機織工場や家内制の作業場が連なり、今も織機の音が響き渡っている、まさに丹後縮緬の町がそこにありました。
野田川町の玄関口である「野田川駅」は町の中心分から遠く離れた、隣り町近くにありますが、この駅はかつて「丹後山田駅」という名の駅でした。そしてかつてこの丹後山田駅から加悦町までの5.7キロを加悦鉄道が走り、野田川町には「丹後三河内駅」があったのです。
加悦鉄道は産業構造の変化と旅客数の減少、さらに国鉄(現JR)が宮津線(現・北近畿タンゴ鉄道)の貨物輸送を廃止した事によって、昭和60年(1985)廃線となります。かつて線路が敷かれていた跡は現在サイクリングロード「加悦岩滝自転車道線」として整備されていいます。
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