京都と大阪の県境にまたがり、山城盆地と大阪平野を繋ぐ狭路部にあたる山崎の地は、古来より軍事上・交通上の要衝でした。中世初期に長岡京がこの地の北部に開かれた時代には、淀川に山崎橋が掛けられ、また山崎津の河湊が長岡京の外港として開かれ栄えます。その後平安時代ごろからは京と摂津を結ぶ往還に山崎駅が置かれ、近世江戸時代以降も西国街道の宿場町として賑わい、また山崎橋無き後の淀川の渡船場としても発展していきました。
さて、この山崎の地名の由来は、岬のように飛び出した天王山の地勢「山の崎」による説が有力です。太古のこの地は対岸の男山(橋本市)と連なった山塊でした。それが淀川の浸食よって長い年月をかけて寸断されて、現在の地勢になったそうです。国を越えてまたがる地である為、中世ごろから摂津(大阪)側の山崎に対して、山城(京都)側を大山崎と称するようになったといいます。もっとも住民にはあまり大山崎という名称は定着していなかったようですが。
山崎が流通拠点として繁栄の絶頂を迎えたのは中世まで。やがて京の外港として、淀川の対岸の淀が開発されると、河港の役割を奪われた山崎の町の商業的な発展は大きく衰退していきます。
そこで山崎の商人は対岸の男山にある石清水八幡宮の神人身分を取得して、胡麻油などを中心に商業活動を展開していきます。石清水八幡宮の神官がこの地に胡麻油の技術を最初に持ち込んだ事から、現在でも山崎は「胡麻油発祥の地」として語り継がれています。その山崎商人の販路は、遠くは九州から美濃国にまで商圏を拡大して山崎の再生に踏み出していったのです。
さて、山崎の地には石清水八幡宮の離宮八幡宮があります。この離宮八幡宮の社殿は江戸時代に2度にわたる幕府の助成を受けて荘厳さを増し、やがて男山の石清水八幡宮との本末争いを引き起こすようになりました。この争いは幕府の裁定によって石清水八幡宮と離宮八幡宮を公式に分離独立させる事によって解決が図られます。
この争いの発端は、石清水八幡宮のルーツが山崎の地にあったからといいます。この地は古くには「水生野」と呼ばれた名水の地であり、離宮八幡宮の湧き水は現在、名水百選にも選ばれています。その事は大正時代に寿屋(現在のサントリー)がこの地にウイスキー蒸溜所を建設した事からもわかります。(山崎蒸溜所は大阪側の島本町山崎にあります)
ウイスキーの蒸留地としてこの山崎を選んだのが、初代工場長の竹鶴政孝。広島県竹原市にある竹鶴酒造の分家筋で、その後北海道余市でニッカウヰスキーを創業したその人です。
西国街道の宿場町「山崎宿」の規模としては、町並南北15町、家数261軒、人口約1,042人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠屋は8軒(内訳は、大は無く・中3・小5)。
京都の伏見から出発すること最初の宿場でしたが、実質的には次の郡山宿(茨木市)との間宿の位置付けだったようです。山崎の町並みは、幕末の戦乱によって離宮八幡宮をはじめ寺社や民家百数十戸が焼失した経緯もあり、もともと大きな町場ではありませんでしたが、それでもJR山崎駅周辺の街道沿いには往時を偲ばせる家並みがわずかながらも残されていました。(最もその大半は大阪府島本町側にあります)
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