平安京において左京西部を南北に走った櫛笥小路は、その後の戦乱と平安京の衰退と共に崩壊を始め、やがてその姿を消す事になりますが、時を経て豊臣秀吉が行った洛中改造(天正の地割)によって、その一部が再開され、日暮通と呼ばれるようになります。しかし、その道筋は1本では無く、所々で断片化し、また屈曲していました。
もっとも、これは平安京時代からすでに見られ、二条大路の北は大内裏に、また南側では三条大路まで禁苑である神泉苑の造営によって消失。さらに平清盛が八条大路付近に西八条第を造営して、当時から各所での通の分断が始まっていました。
さらに江戸時代になると、徳川家康による二条城が造営。二条城の北側の路は日暮通として残り、二条城の北側、押小路通から四条通までの区間は神泉苑にちなんで神泉苑通。さらに松原通から十条通の区間を櫛笥通と呼びます。この櫛笥通も七条通以南は、梅小路公園やJRの線路、さらに東寺(教王護国寺)などによって各所で分断されています。
櫛笥というのは、髪を梳かす櫛の事ですが、それ以外にも女性の化粧用具や身の回り品を入れる箱のことを言います。 この通りに櫛笥を売る店があったかどうかは分かりませんが、平安時代に櫛笥大納言と呼ばれる貴族が住んでいたためとも言われています。
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