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浄福寺通は千本通から数えて東へ2本目の筋で、西陣の寺之内通から丸太町通に至る通りでした。しかし現在は洛北の宅地開発による市街地の拡大によって、船岡山・鞍馬口通まで延伸しています。寺之内通では鍵の手状に屈曲、またその先盧山寺通でも屈曲して船岡山に至ります。
江戸時代には二条城の北西側に京都所司代下屋敷があった為、浄福寺通は下立売通で終わっていました。しかし明治を迎え、京都所司代下屋敷が取り壊された後に、竹屋町通まで通が伸びています。
この通の二条城をさらに越えた南の延長上には、四条通から先に幕末の新撰組関連の史跡が集まる通で知られる坊城通があります。
通の名の由来となった浄福寺は、現在一条通上ルにあります。朱に塗られた「赤門」から、地元では赤門寺として親しまれています。この浄福寺は、もともとはこの場所には無く、幾度か移転を繰り返しながら、元和元年(1615年)に、この地に定まりました。延暦年間
(782〜802年)ごろに天台宗の寺として建立され、当時二十五大寺の一つに数えられた古刹だったと言われています。
通の成立は遅く、豊臣秀吉の洛中改造の後、江戸時代に入ってからで、浄福寺の移転とほぼ同じ頃だと思われます。当時のこのあたりは、はまだ農地でした。 |
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西陣エリアは景観が整備され「西陣モール」の雰囲気 |
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一条通で鍵の手にクランクします |
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