京都の通(通り)には、”通り名唄”に歌われ、今も中心部に残る「丸竹夷二押御池・・」の古くからの通り名の頭に「新」を冠称する通りや地名がいくつかあります。いずれも京都御所に隣接して鴨川を挟んだ東西に分布しています。
これは、近年に造られた町では無く、江戸時代中期の宝永5年(1708)に京都の大半を消失した、いわゆる「宝永5年の大火」に遡ります。この大火で庶民の町だけでなく、公家や皇族の邸宅、さらに天皇の御所も焼失したのです。
これを機に御所の拡張が行われます。当然市中の町家は御所の周辺にもありましたから、それを全て代替地に移転させる事になりました。こうして新しく生まれた町(通り)が、かつての通り名に「新」を冠した町なのです。
新烏丸通は天正5年の大火までは寺院があつまる地域でしたが、それらを鴨川の東に移転させ、烏丸丸太町北東側の町を移して生まれた町(通り)です。
北は丸太町通を越えて荒神口通から南は二条通まで、河原町通と寺町通の間を走る、約1kmほどの通りです。
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