榛原と吉野の中間に位置する山間の町、大宇陀は 現在も葛や薬草の町として知られ、また近世城下町の面影を色濃く残す町として国の重要伝統的建造物群(重伝建)に
指定されています。古くは阿騎野(あきの)と呼ばれたこの地は、宮廷の狩猟地でであると共に薬草の産地としても知られ、江戸時代には幕府の命で各地から集めた薬草を栽培し、大宇陀を代表する旧家森野家の旧薬園には250種類もの薬草が植えられています。
国道166号線沿いにある「道の駅・宇陀路大宇陀」から宇陀川にかかる赤砂川橋を渡ると右手に「初霞」の久保本家酒造、さらにその先には芳村酒造が並びます。町並みはここから北へ約1kmにわたり続き、やがて上町に入るとかつて松山城が置かれた宇陀松山藩の城下町となります。赤砂川橋の付近からは旅籠建築や町家など伝統的な様式の建物が連なりますが、上町のあたりから厨子二階に虫籠窓、千本格子に卯建をあげた重厚な商家が増え始めます。今も薬草や吉野葛を販売する商家、旅館、宇陀城の遺構など残り、生きた町並みなのですが、人影が少ないせいかタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。自然環境も含め町全体が稀少な要素を有し、後生に残して行かなくてはならない町並みの一つだと思います。
現在の大宇陀の町並みが作られたのは江戸時代の宇陀松山藩の時代ですが、城下町としては遡ること南北朝時代に築かれた秋山氏の松山城がその始まりです。その後秀吉の時代に福島高晴が入封し今に残る城下町が整備されました。 江戸時代に入ると織田信長の次男・織田信雄 がこの地に封ぜられます。 信雄は大和国と上野国(群馬県)合わせて5万石の所領を有していましたが、上野小幡を四男の織田信良に与えて小幡藩を立藩させ、自身は宇陀に3万石の松山藩を立てました。この宇陀松山藩は3万石の陣屋でありながら、織田信長の家系であった為に国主格を得ていました。
ところが宇陀松山藩は4代信武の時代に藩の財政政策を巡って藩内が分裂、お家騒動を引き起こし、信武は藩の重臣を惨殺して自害します。5代信休は相続を許されますが、2万石に減封のうえ国主格も剥奪、丹波柏原へ左遷され宇陀松山藩はここに廃藩となるのです。 これが今に語り継がれる「宇陀崩れ」という事件です。
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