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高取

たかとり

大和最高所の近世山城を持つ植村家高取藩2万5000石の城下町

奈良県高市郡高取町観覚時・下土佐・下小島・清水谷

 

なまこ壁の長屋門が多く残る武家町・下子島



観光情報としてはあまり知られていませんが、奈良中部で最も知られている古代遺跡の町「明日香」の南に接する高取町は、中世に壺阪寺の門前町として発達し、江戸時代には近世山城において最高所にある「高取城」の城下町として栄えた町で、現在も商家が軒を連ねる町人町の町並みをはじめ、上級武士の長屋門や壺阪寺道に沿った門前集落の家並みなど、城下町の遺構を数多く残す町として景観整備も進められています。町並みは近鉄吉野線「壺阪山駅」から国道を隔てた旧道筋に沿って始まり、高取城址がある高取山へ向けての緩やかな斜面に形成されています。観覚寺から下土佐・上土佐と町人町が続き、武家屋敷長屋門が残る下子島へたどり着きます。




高取は古代から主要な街道沿いにあり、渡来人が定着して以来、地域の中心として発展し、中世から江戸時代を通しても特に重要視された要地でした。天下を取った豊臣秀吉は弟秀長に大和一国を与えると、高取にはその家臣である本多利久が1万5000石で封じられます。この利久の時代に高取城の大規模な近代化を始め今に残る城下町が整備されていきました。利久の後を継いだ本多俊政は、関ヶ原の戦いでは家康側に付き西軍相手に奮闘したため所領を安堵され2万5000石に加増されますが、子に恵まれず無嗣改易となります。ちなみにこの本多家は徳川家康重臣の本多家とは一切関係ありません。その後一時幕府に収公されますが、3年後の寛永17年(1641)徳川譜代旗本の植村家政が2万5000石への加増を受け諸侯に列し後期高取藩が成立します。以後植村氏は14代続いて明治を迎えます。




高取城は高取山の山頂に築かれた自然要害堅固な山城ですが、とはいえ戦時はともかく平時には不便極まりない為、やがて少数の城番を残し藩政を行う陣屋を麓の土佐村に新設する事となります、これが土佐新町(現在の上土佐)で、同時に家臣団も下子島付近へ移り住み武家町が整備されていきました。 高取藩は2万5000石の小藩でしたが、幕府から周辺直轄領の管理を委託され、その預かり地を含めると所領は実質的に10万石ちかくに上り、それゆえ植村家は大大名の家格を与えられ幕府要職の地位に就いていました。




最後に土佐という地名は6世紀初頭、大和朝廷の時代に労役として四国の土佐からこの地に入植した人々が故郷を偲んで名付けた地名と言われています。ちなみに上子島は「かみこしま」の他「かごしま」とも読みます。 高取町の町並みは下子島の武家屋敷で終わりのようですが、さらに壺阪寺へ向かう街道筋・清水谷地区にもかつて茶屋などが立った門前集落の家並みが残されています。車一台がやっとの細い道筋には全体的に質の高い伝統的建造物の民家が建ち並ぶ街村風景に驚かされました。


かつて藩の中心であり、現在もメインストリートである下土佐



近鉄壺阪寺駅近く観覚寺の町並み






壺阪寺の門前集落・清水谷


酒蔵情報

清酒

「金剛力」

金剛力酒造

奈良県高市郡高取町上土佐28

0744-52-2073