和歌山と松阪を結ぶ和歌山街道(伊勢南街道)沿いの宿場町であった鷲家は、幕末の天誅組の終焉の地として有名知られています。
江戸時代初期の鷲家は初め天領でしたが、和歌山街道が紀州徳川家の参勤交代路となった事から和歌山藩領へと移管され、本陣・脇本陣が設けられ、小さな宿場町として人々の往来で賑わいました。
和歌山街道と伊勢街道へ通じる道の三叉路には、文政11年(1828)に当村出身で大阪の油屋岩井庄兵衛が建てた道標が今も残されています。「右いせ江戸」と刻まれたこの道標は、江戸をさすものとしては最西端の道標だと言われています。
城下町大宇陀から伊勢へ通じる国道166号線と旧和歌山街道(伊勢南街道)が合流する鷲家は古くからの交通の要衝であることは一目でしたが、山間の集落故に地理的にも近代化から取り残され、往時を偲ばせる町並みが残されているのでは?と足を運びました。国道は鷲家川の対岸を走り、途中トンネルによって集落を見ることなくバイパスしています。そしてありました。かなりのレベルの町並みが。
こんな僻地にありながらその町並みの状態の良さにも驚かされました。残されている所には残されているものです。集落の外れには天誅義士の墓が残されていました。この周辺にも各地で戦死した義士の墓が数多くあるそうです。
天誅組に少し触れると、「天誅組」は彼らの正式な名称でありませんでしたが、いつしか敵味方の間で定着したものと言われています。幕末、尊皇攘夷派公卿と長州藩の後ろ盾によって大和で挙兵した天誅組は、倒幕と天皇親政による新統一国家建設を目指し、自らを朝廷の先兵と称して幕府の天領を朝廷の直轄地とすべく五條代官所を襲撃。代官たちを血祭りにあげ桜井寺において「御政府」を掲げます。しかし朝廷では佐幕派の工作により倒幕派公卿を含む長州藩は失脚、各地で強行路線を取っていた天誅組は逆に疎まれ、ついに朝廷は天誅組を朝敵として和歌山、津、彦根、郡山の各藩に天誅組の討伐令を下します。総勢1万人を超える軍勢が天誅組包囲網を狭めていくなか、烏合の衆に過ぎない天誅組は各地で廃退。
ぼろぼろになって東熊野街道を敗走するも鷲家口で待ちかまえる紀州藩・彦根藩軍。決死隊により退路を切り開き鷲家まで逃げ延びたものの、そこには津藩軍が待ちかまえていたのです。この天誅組の挙兵はやがて訪れる明治維新の導火線になったといわれています。
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