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鹿野

しかの

中世の城下町から在郷町・そして最後は陣屋町だった小さな町

鳥取県鳥取市鹿野町鹿野 【旧・高郡鹿野町2004年合併】

 


鳥取市の西南に位置する小さな城下町鹿野は、古くから山陰道における交通の要衝として、また因幡伯耆支配における戦略拠点として度々争奪が繰り返されてきた地でもありました。戦国時代には毛利氏が領有するも尼子氏の手に落ち、豊臣秀吉の時代になってようやく戦乱の世は収束。尼子氏の遺臣である亀井茲矩が1万3500石で鹿野城に入封します。この亀井氏支配の時代に今に残る鹿野の町割りなど近世城下町が整備されました。殿町・鍛冶町・大工町・紺屋町・御茶苑・堀端・鉄砲町・的場などの小字名はこの時代の名残であります。



亀井氏はその後、関ヶ原の戦いで家康の東軍に属して戦功をあげ、加増を重ねて石見津和野へ4万3000石で移封となり、以後の鹿野は鳥取藩に編入され、鹿野城は一国一城令により破却されてしまいます。 ここで一旦城下町としての鹿野に終止符が打たれ、以後は商業を中心とした在郷町と、鹿野往来の宿場町として再出発しますが、あまり発展はなかったようです。



貞享2年(1685)岡山池田家から鳥取藩主となった池田光仲の二男池田仲澄は新田2万5000石(その後3万石に加増)を分知され、鳥取城下に東館藩を立藩します。 東館藩は鳥取新田藩もしくは鹿野新田藩とも称されますが、明治元年まで鹿野の地に陣屋が置かれる事は無く、しかも鹿野藩という名称は、明治元年にようやく鹿野に陣屋を置いてから成立した藩名でした。この鹿野藩は独立した大名の待遇でしたが、多くの諸藩における支藩の例にもれず、その経営形態は成立初期から鳥取藩の会計下に置かれていました。結果これが鳥取藩そのものの財政をひどく圧迫し、かといって鹿野藩の経営規模では自立してやっていけず、とうとう独立した翌年には、あっけなく本藩に合併してしまいます。



したがって江戸期の鹿野は城下町はおろか陣屋町としても分類出来ないところがありますが、あえてその肩書きがあって初めて古い町並みが”町おこし”として形にならざる得ないところが悲しいところ。 ちなみに同じ状況で分知され、同じ運命をたどった支藩に鳥取西館藩、後の若桜藩があります。



丘陵斜面に造られた鹿野の町は碁盤の目に区画され、伝統的な商家建築の家並みと合わせて城下町を偲ばせますものの、遅らせながら最近になって古い町並みの見直しと整備が始まった様子を受けます。 もっとも、城主支配の城下町の時代よりも半農半商の在郷町としての時代の方がずっと長く、宿場町としてもそれほど盛り上がらない、陣屋町としての期間は僅か1年弱といった事が、町並みに影響を与えているようで、中心が無くどうもつかみどころの無い町の中心にその歴史を思い馳せます。

しかしそれでも、現在の鳥取県下に残る稀少な町並みである事には変わりません。



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