萩市中心市街の南西部に大きく尻尾の様に突き出した川島地区。阿武川が松本川と橋本川に分かれるこの地こそが萩の城下町から現在の萩市街を形成している三角州発祥の地であります。地名の通り阿武川河口の中洲だった川島は、次第に土砂の堆積によって成長し、現在の広大な三角州となります。平安期にはすでに河島荘の名がありました。藩政期には多くの下級武士が住んでいましたが、その他農業従事者を上回る各種商工業者141軒が集まる、萩城下南東地区における商工業の町だったようです。
川島を流れる藍場川は江戸時代中期の延享元年(1744)にそれまで田畑に水を引いていた小溝を開削して拡幅し、阿武川と新堀川を結ぶ全長2415.6mの水路で、農業用水、防火用水の他、物資運搬の舟運も行われていました。道路拡張の為に現在の藍場川は当時よりも狭くなっているそうですが、市の景観保存地区となって景観が整備され、華やかな鯉が泳ぐ川には紫陽花や花菖蒲なども植えられて、心和ませる水辺の風景となっています。この藍場川の風景は川島地区だけでなく、中級武士が住んだ橋本町・御許町(おともまち)・江向などにも続き、小橋筋と呼ばれています。
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