山口県南東部、柳井市の東約7km。日本三大潮流の一つとして知られる大畠瀬戸は、大潮の時に大きな音をたてて渦巻くことから、古くは「万葉集」にも”大畠鳴門”と記されています。大畠瀬戸は古くから瀬戸内海きっての難所であり、大畠と周防大島を行き来する船乗りに恐れられてきました。大畠の町はその風待ち、潮待ち港として発達したと言われています。
江戸時代から明治期にかけて商業的な発展を遂げた住吉町、天神町、石神町には伝統的な町家様式の建物が建ち並んでいました。
藩政期の町家は間口に制約があったので、間口に対して奥行きが深い「鰻の寝床」と呼ばれる建て方が一般的でした。
ところが大畠の町は背後に山が、正面には海が迫る平地面積の少ない地名ゆえに、比較的間口が広く取られていました。平入りの建物や道路に平面を向けて建てられた土蔵が目に付きました。大畠の建物は江戸期に幾度のも大火を経験し、柳井と同じように、厚く漆喰を塗り込んだ土蔵造りや塗籠造りの建物に建て替えられて行きましたが、その後の大火で街並みは失われ、同じような姿で再建されることはありませんでした。
現在大畠で最も古い街並みが残されているのは、天神地区から石神地区にかけて約300mほどの狭い道筋です。酒蔵や裕福な商人の屋敷が集まっている為と思われますが、老朽化も激しく、無人となっている建物も目に付きます。
大畠には笹川酒造と脇酒造の2軒の酒蔵がありましたが、脇酒造は平成元年に廃業。その笹川酒造も廃業しています。
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