一路一会古い町並みと集落・北陸>富山>大門
  大門
だいもん
 熊野往来と北国街道の宿場町
 富山県射水郡大門町大門 【富山県射水市大門町】2005年合併

 構成:商家(切妻妻入り・切妻平入り)・本棟造り型民家 ■ 駐車場:なし
 
 

庄川を挟んで高岡市の東に接する大門町大門は、北国街道の宿場町として発展した町でしたが、同時に同街道のルート変更の旅に振り回され続けた町でもあります。

ざっと古代官道に始まり江戸期の北国街道に至るまでの流れに沿って話しを進めていかなくてはなりません。まず古代官道「北陸道」は小矢部川の左岸を通り、国府が置かれたとされる高岡市伏木を経由して現在の大門(当時は三島野)ー小杉町白石ーを経て草島の渡しで東岩瀬へ至るルートを通っていたと言われています。
この地にはもう一つ、伏木など沿岸部に出ず、平野部をショートカットで横断する
「北陸往還」がありました。官道ではありませんでしたが交通量は多く、やがて前者を北陸道「北道」後者を北陸道「南道」と呼ぶようになります。
しかしその後、北道は敗退して南道が本道となり、やがて江戸時代を迎えると南道をベースにした北国街道が加賀藩によって整備されました。

旧北陸道「北道」の敗退は街道沿いに集落が形成されていた三島野(大門)に大打撃を与えます。生き残り策として村は旧北道を引き継ぎ「熊野往来」と改名、水戸田山中の熊野社への参詣路として整備振興しました。また東岩瀬へ至る草島往来との追分けでもあり、「熊野の大門先き」と称された事から、やがて「大門」の地名が生まれたといいます。当時の村の場所はJR北陸本線和田川鉄橋付近の古大門だといわれています。
ところが江戸時代、加賀藩の支配のなかで高岡と富山の二つの城下町の誕生により、北国街道のルートが幾度も変更され、最終的には高岡から大門を経由して小杉下村ー草島(渡し)ー東岩瀬へ至る道に落ちつきます。これにより大門は北国街道の宿場町として復活し、庄川の渡河地の要衝として発展します。熊野社は江戸期に高岡へ移され、熊野往来は前期北国街道である中田通(上使街道)へのバイパスとなります。また、氷見往来から北国街道へ合流するための脇街道も大門で合流しました。

承応元年(1652)庄川の大洪水が起こり、農民救済の為に加賀藩は大門村の一部をさいて「大門新町」の町立てを許可。大門と高岡の間だを流れる庄川には、寛文6年(1666)に初めて橋が架けられましたが、わずか2年で洪水より消失。同時に西側に俣川が生じ、藩公認の渡船場が設けられました。再び橋が架けられたのは、江戸時代後期の嘉永元年(1848)高岡の侠客・大長の義侠によるもので、彼の功績をたたえて「大長橋」と呼ばれていました。

現在、JR北陸本線「越中大門駅」は、大門町ではなく隣りの大島町にあり、中心繁華街はその南口西側にあります。町役場は遠く南に離れた田園の中にあり、つかみどころがない町ですが、往時の面影を残す家並みはしっかりと残されていました。
主要地方道高岡青井谷線がかつての「熊野往来」で、南の生源寺で中田往来に合流しています。家並みは大字大門の旧往来沿いに形成されています。町の中心市街から離れ、静かな街村として佇んでいますが、信州本棟造りにも似た庄屋?の屋敷を始め、千本格子の家々はみな手入れがなされ、町並みとして健康な状態を保っていました。