大宮通は堀川通から数えて東に4本目の筋で、北は御園橋通から、南は久世橋通まで京都市街を縦貫する南北約10kmの路ですが、四条通から南は道幅の広い幹線道路であるものの、四条通から北側は一方通行が多い、細い生活路となっています。また二条城で南北に分断されています。
この通の歴史は古く、平安京の大宮大路にあたります。「大内裏」の東側に接していたため東大宮通とも呼ばれていました。(ちなみに大内裏の西側の通りを「西大宮大路」といい現在の御前通にあたります)しかしこの「大宮」は大内裏の事はなく、この通りの北辺にある式内社「久我神社」を指すというのが定説となってきています。平安京がこの地に建設される以前からすでに大宮郷の地名があったからです。
やがて平安京の衰退と共に、特に右京の大路の荒廃は激しく、大宮大路も同様でしたが、それでも鎌倉期には邸宅街としての景観だけは維持していたそうですが、たび重なる戦乱によっても大宮通はしばしば戦場となり、その一帯は農村と化していきます。
室町期には京都市街の最西端の道でした。平安期より「大宮絹」と呼ばれた名産品を生み出していましたが、応仁の乱で西軍の陣地となった事から「西陣」の名が生まれ、やがて織物の大中心地として再興し、現在に至ります。
豊臣秀吉の洛中改造によって再整備され、江戸時代には北は今宮神社から南は西九条村に延伸。七条大宮は丹波、山陰方面への出入口として栄え、「丹波口」と呼ばれていました。
さらに二条城が造営されると、大宮通は分断されますが、その前後には商家や旅館が集中して繁華街へと発展していきます。さらに京都所司代屋敷の拡築により丸太町通と竹屋町通間が狭くなり、それは今も変わりません。
大宮通の北端部、建勲通から御園橋通の間は新大宮商店街と呼ばれる京都市内で最も長い商店街が形成されています。あたまに「新」が付いているのは、かつて大宮通は建勲通かすこし西に屈曲して今宮神社の近くを通って北を延びる道筋を辿っていて、現在の大徳寺通がそれにあたり、地元では大徳寺通を大宮通と称していることによります。
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