給水塔
2008/11/29
行橋機関区の9600型蒸気機関車と給水塔、給水塔も蒸気機関車がいなくなり無用の長物になりすぐに壊されたことでしょう。わたしはこんな古い給水塔も味がっていいなあと思っています。津山機関区は今も機関庫とターンテーブルが残っているので新たな鉄道マニアの観光スポットになっています。
9600型蒸気機関車は国産で大量生産された機関車ですべて大正時代に生産されています。
大正というと随分昔に感じられますが撮影された時は製造後45年経過した時で保全すれば十分使ええる状態でした。番号だけの機関車名はプレートの読み方にルールがありきす。先頭の数字は連番の100番台を意味します。次の96が形式で後の二桁が連番の下二桁になります。
この機関車は9600形式の768番目に造られた機関車を意味します。
機関車の前方の両サイドに付いている鉄板はデェフレクターと呼ばれ(通称デフ)除煙板と呼ばれるものです。このように下が切り取られた物を切り取り除煙板と呼ばれるものです。門司鉄道管理局で多く作られていたので門鉄デフと呼ばれこればかり撮影するファンもいたくらいです。この機関車のデフの横には波形がデザインされています。こんな事にメロメロになるのが鉄道ファンです。
急行ニセコ
2008/11/01
C62蒸気機関車の重連が牽引する急行ニセコ。C62は日本の蒸気機関車で一番大きく、東海道、山陽本線で特急を牽引していた。最後に残った函館本線のニセコを撮影するために多くの若者が北海道に渡った。特にC622号機はデフにツバメのマークが付いていてスワローエンゼルと呼ばれていた。これが先頭に来れば気も狂わんばかりに興奮した。
高鳴る鼓動、喉は渇き、手は汗がにじむ。決定的なところだけ一枚だけ撮ればいいのにカメラのシャッターを切る音が響く(撮った写真を見るとこんな連写するのに限ってろくな写真がないのが実態だった)、今のようにフイルムの巻上げもピント露出を合わせてくれないカメラだった。ニコンからモータードライブのカメラが売り出されたが30万円以上した。私の初任給は1万6千円である。そんな給料でも金を貯めれば一眼レフが買える時代になった。一眼レフのシャープなレンズがあっただけ恵まれていたのかもしれない。
小雪舞う長万部駅をリズミカルなドラフト音で眼前を通り過ぎ、哀愁に満ちた汽笛を残し札幌へと走りぬけた。そんなシーンひとつひとつが私の青春の記憶である。還暦を過ぎても夢に蒸気機関車が現れる。まだ蒸気機関車がいるのか撮らなくてはとあせる。その夢の中ではいつもカメラほ持っておらずカメラを取りに帰る途中で夢からさめる。
余談だがこのC62型蒸気機関車は車軸の配置からアメリカのニーヨークセントラル鉄道でハドソン川を走っていた機関車をハドソン型と呼んでいた。その車軸の配置と同じなためC62もハドソンと呼ばれていた。北海道でC62蒸気機関車の撮影にあかけくれていた兄弟いた。後にパソコンの走りの時代にゲームを売るハドソンと言う会社を創る。
折尾駅
2008/09/04
折尾駅に停止するC55型蒸気機関車C55はスポークタイプの動輪でスマートな形状で人気があった。走っていたのは筑豊本線、吉都線、肥薩線、日豊線と宗谷本線である。折尾駅は鹿児島本線の駅であるが筑豊線がクロスする形で北へ延びている、筑豊地方の石炭を若松港まで運ぶために延びている。大きな炭鉱を結ぶ線路は複線であった。炭鉱全盛期にはそれだけの通行量があったのであろう。
どんな写真も四十年近くなるとすべてのものが古く見える。それならば何でも撮っておくべきだったと悔やまれるがなかなか人間は出来るものでない。その時代にしっかりと目的意識を持ち撮影した人は非凡な人というべきである。そうは思っても時間もかかるし実行に移せないものである。通りすがりで撮ったような写真では見る人に感動させられないと思う。
撮影者の強いテーマへの意識と執着がなければいけないと思う。たとえば駅を撮るならば駅前の風景、駅裏の風景、駅本体、改札口、切符売り場、待合室と列車を待つ人、料金や時刻表、売店、プラットホームと列車を待つ人(特徴的な客、行商人、学生)連絡橋、信号機、タブレット、ポイント切替機、駅員、機関士の仕事ぶり、停車、通過する列車、いろんな角度から撮られた写真は時間と共にいい味をだすのである。
加齢を重ねれば記録に残すならこんな観点で撮影しようと知恵も付いてくるが残念ながらこの当時の私にはこんな事は考えは育っていなかった。
C62型蒸気機関車
2008/08/09
糸崎機関区のC62蒸気機関車である。かってC62は日本最大の蒸気機関車で東海本線、山陽本線で特急や急行を引いた。この機関車は呉線を走っていた。 C62クラスになると車軸が重いので走れる線路は基幹路線の一部に限られる。呉線はかって山陽線が呉線経由であったため線路規格が幹線仕様であった。山陽線は最大の難所、瀬野−八本松の難所越えがあったため機関車の性能が向上するまで呉線経由と並行運用されていた。
私が呉線に撮影に行っている時に山陽線経由で帰ると貨物や特急電車には瀬野では電気機関車が二台後方から後押ししていた。今の瀬野八を見ますと勾配は相変わらずの急勾配だがEF65,EF66の電気機関車は単機でぐいぐい登っていく。あの当時のブルトレはEF58が牽引していたが現在の電気機関車は性能も格段に向上した。
糸崎機関区は岡山鉄道管理局管内でこの蒸気機関車のオーバーホールは岡山機関区で行われていたので何回か見に行った。試運転走行は山陽線を使ってやっていた。
広島へ茅葺き民家を撮影に行くときは糸崎機関区の前を通る。この写真のコールバンカー(給炭機)や機関庫やターンテーブルは撤去され今は面影もない。こんな写真の風景も近代遺産の1つであろう。
うっすらと煙が出ているが蒸気機関車は運行している時は火を絶やすことは出来ない。火種は残しておかないとボイラーをあたため蒸気が発生するまで時間がかかる。七輪に火をおこし炭を起こし秋刀魚を焼くようなものである。(若い人は火鉢を使った事がないと思いますが火鉢には種火に灰を掛けて埋めていたそんな感じ)蒸気機関車は動かすには缶に石炭を投入しボイラーの圧力を上げておかないと動かせない。
三重連
2008/07/20
この蒸気機関車の三重連の写真は布原かとお思いでしょうがこれは岡山操作場の発車風景です。ここは架線もなく広いヤードで撮影しやすいところでした。荷物は石灰岩を運搬しての空荷です。石灰岩は鉄鋼やセメント工場に使われるので伯備線の足立から瀬戸内海に沢山ある製鉄会社等へ運ばれます。三重連は岡山操作場から倉敷駅まででした一台の機関車はここで切り離されて日本鋼管福山などからの空荷を引いて帰ります。
ある時、機関車一台の貨物が発車する前に運転席に登り撮影させてもらいました。いろいろ話しているうちに倉敷まで乗せてくれませんかと頼んでみたら、乗せてもいいが目立たぬように駅を通過時などは背を屈める事で機関士から了解を得ました。こんな機会はめったにないと心躍る気持ちを抑えて必死でシャッターを切りました。乗って感じた事は振動の酷さです。
蒸気機関車はご存知の通り原始的な機関です。ボイラーと水も一緒に走る機関効率6パーセントのワットやスチーブンソンの頃となんら変らない構造です。ボイラーで発生した蒸気をシリンダーに入れ往復運動をクランク軸で回転運動に変える。構造上バネが入れられないのです。立っていても耐えられない振動を受けます、それでも機関助手は黙々と石炭を缶にスコップで投げ入れるのです。倉敷駅について困った、切符など買っていない無賃乗車です。しかし、そこはいつも撮影で線路伝いに撮影にはいっているので写真を撮るふりして線路伝いに帰りました。